益田氏年表

草創期

益田氏は上府(現在の浜田市)御神本の地にいた4代兼高が平安時代末期に益田荘の壮官に任じられたことに始まります。鎌倉時代に益田氏は大谷御土居や石見海岸に十八砦を築いたといわれ、菩提寺として妙義寺を創建しました。

動乱期

南北朝の動乱期には、11代兼見が三宅御土居、萬福寺、現在の医光寺のもとである崇観寺を創建したといわれ、七尾城と合わせて中世益田の城下町の基礎がこのとき生まれました。また龍蔵権現(現在の染羽天石勝神社)の別当寺勝達寺も十六坊を構え栄えました。

繁栄期

応仁の乱後、益田氏は対立する庶子家や津和野の吉見氏を抑えて石見国内の国人一揆の盟主に成長し、守護大名大内氏の大外様衆に加えられ上洛を果たしました。 この頃の益田は、山口の大内文化の影響を強く受け、雪舟との交流を物語る萬福寺や医光寺の庭園が築かれ、優れた絵画も描かれました。さらに、戦国の戦乱の中で長門国見島(現在の萩市)や博多湾沿いの海洋貿易の拠点を領有して海洋領主としても活躍し、益田城下町もそれまでの本郷市に加え、新たな交易の場として今市が整備されました。

戦国期

天文20年(1551)以降毛利氏と敵対した益田氏は、七尾城を大改修し居城としました。このとき七尾城は中世山城としての成熟期を迎えた姿にありました。その後毛利氏と和睦した益田氏は再び三宅御土居を居館とし、天正11年(1583)の大改修では、なんぼく100m、東西190mにおよび東西に土塁を構え、周囲を堀で囲んだ大規模な館を築きました。

終焉期

慶長15年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた益田氏が、益田から長門国須佐(現在の萩市)に移ると、三宅御土居と七尾城は廃絶し、益田は津和野藩と浜田藩の領有となりました。益田のまちは近世城下町への発展を迎えることはなく、中世の時代の終焉とともに城下町としての役割を終えました。

益田氏系図 益田氏は藤原鎌足を始祖として本来藤原氏を名乗り、初代国兼が永久年間(1113~ H17)に石見の国司あるいは石見国衡の役人として下向してそのまま土着し、4代兼高が建久年間(H90~H98)に本拠を益田荘に移して以来益田氏を称し、その後関ケ原の役までの約400年間にわたって山陰の有力武士として成長し、勢力を誇った氏である。源平の騒乱時、兼高は石見押領使として平家追討に功績があり、所領を分与された三隅氏、福屋氏、周布氏など一族諸氏と石見各地で個別に開発と支配を進めた。鎌倉初期における益田氏の領域は、国衛領や益田荘(現益田市東半部から那賀郡三隅町、美濃郡美都町、浜田市西部に及ぶ摂関家九条家領の荘園)、長野荘(現益田市の高津川西岸一帯と東岸の一部に及ぶ地域に所在した崇徳院御影堂領)を中心に石見全域にわたっていた。6代兼時は京都閑殿院の再建に役を負担
した後家人の一人としてF吾妻鏡』にその名がみえ、家古襲来に備え石見十八砦を築いたといわれる。

 南北朝時代、庶子家は独立して南朝方に属し、北朝方の惣領家と対立が続いたカミ庶子家から出た11代兼見が惣領家を継承すると、強力な家臣団編成と支配機構の整備が確立し、益田本郷を中心に本格的な開発を進められた。さらに貞治3年(1364)に大内弘世が周防長門石見の守護になると以後大内氏と結び(室町時代を通じて領域支配を確立した。室町時代末期から戦国時代前半にかけての益田氏は、有力守護大名となった大内氏との関係を強めて西日本各地で戦い、応仁の乱が勃発すると16代貞兼は大内氏に従い山名方として摂津国に転戦した。文明2年(1470)に細川方として蜂起した大内教幸(道頓)の乱を陶弘護と鎮圧し、大内政弘が山名氏に握られていた石見守護職を回復すると、益四氏に対して長門国、周防国の一部が与えられた。 15代兼尭は応仁・文明の乱の後に敵対関係の庶子家や吉見氏を押さえて石見国内における国人一揆の盟主となり、また雪舟を当地に招いた。さらに幕府の実権を握った大内氏とともに入京した17代宗兼は大外様衆に列された。

 戦国時代末期の天文20年(1551)に陶晴賢の挙兵によって大内義隆が自刃すると、19代藤兼は姻戚関係のあった陶氏と呼応して吉見正頼を攻めたが、毛利元就が陶氏を厳島合戦で滅ぼすと終始陶氏についた益田氏は石見に孤立した。しかし吉川元春の仲介により益田氏は毛利氏に月脇同することとなり、その後は毛利輝元に従い中国各地で戦い、文禄・慶長の役にも参戦した。この時代、藤兼と20代元祥は巧みな外交を行い、戦国大名へ服属するなかで石見、出雲、周防、長門、筑前の五カ国に及ぶ領地を獲得するに至った。この時期の益田氏は長門見島や博多湾の原郷や筵田郷を領有し、さらに水軍も編成して海洋領主としての性格も強め、豊かな財政基盤を有していたとされる。

 慶長5年(1600)の関ケ原の役の後、毛利輝元が防長二州に減封されると、20代元祥は毛利氏への忠誠により長門国須佐に移り、以後益田氏は知行高12つ00石を与えられ、毛利萩藩の永代家老に処遇された。

 なお、益田家には総数1万点にのぼる文書群が伝来し、このうち中世の約800点と近世文書約5,700点は現在東京大学史料編纂所に所蔵されている。鎌倉時代の石見国の田地の領有を示す石見国惣田数注文に代表される所領関係史料や譲状、置文、契約状など主人と一族家臣との関係を示すものに特徴があり、大内氏や毛利氏関係の文書も多く含まれる。江戸時代に125軸の巻子に装丁された中世文書と近世文書の一部1,267点は、F大日本古文書家わけ文書』として平成12年から全7巻の予定で刊行が始まっている。