沖手遺跡の埋蔵文化財発掘調査が終結しました。

平成25年8月より行われていた沖手遺跡の埋蔵文化財発掘調査が、平成25年11月末に終結し、ホームセンター開発者に引き渡され、建物建築のための埋め立て工事が始まりました。

今回の発掘調査において、沖手遺跡の重要性が明確となりました。沖手遺跡は、中世前期の集落遺跡であり、中世益田の起点であるということがわかってきたと思います。今回の調査は、沖手遺跡の全容解明の手がかりとなりました。

しかし、益田市の埋蔵文化財に対する政策に一貫性がないことなどで、開発事業者の餌食になり、沖手遺跡の全容解明までには至りませんでした。残念ですが、今後は現実的な対応をしていき、沖手遺跡に少しでも陽が当たるようにしていく考えです。

中世益田の遺跡活用を考える市民の会(けやきの会)では、沖手遺跡埋蔵文化財発掘調査をうけて沖手遺跡の重要性等に関わる公開質問を益田市教育委員会に提出しました。以下その内容を掲載致します。

沖手遺跡発掘調査についての公開質問状

 晩秋の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。  

さて、今般ホームプラザ益田北店新築に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要が明らかとなりました。今回の発掘調査において、沖手遺跡の重要性が明確となりました。沖手遺跡は、中世前期の集落遺跡であり、中世益田の起点であるということがわかってきたと思います。今回の調査は、沖手遺跡の全容解明の手がかりとなりました。今回の調査に関わって、以下4項目の質問を致しますのでよろしくお願いします。

  1. 今回の発掘調査により、11世紀後半から12世紀後半にかけての遺物が多数見つかりました。東西南北に走る溝状遺構によって区画された街区をもつ中世前期の集落遺跡であることがわかりました。平安時代終わりの街区を持つ集落遺跡は、全国的に見てもまれな遺跡であると考えられますが、益田市教育委員会としてはどのように認識されますか。
  2. 今回発掘した場所から、建物が密集した跡が見つかりました。今回の部分は、沖手遺跡の中心部と考えられますが、益田市教育委員会としては、どのように認識されますか。
  3. 沖手遺跡のすぐ近くに、中須西原・東原遺跡があります。遺跡の価値を考えるに当たって、その周辺の遺跡と関連付けて考えることは、きわめて重要であると思います。また、今後歴史を活かしたまちづくりにあたって遺跡の整備・活用を検討していく上でも、これらの関連付けが必要です。益田市教育委員会として、これらの遺跡の関連をどのように認識されますか。
  4. 沖手遺跡の位置づけを考えるにあたって、中世において益田川・高津川の流路・河口がどのようであったかは重要であると考えます。益田市教育委員会が出したパンフレットによると、鎌倉時代から室町時代にかけての河口は西側に開いています。しかし、郷土史を研究している人の中には、河口はもっと東側にあったのではないかと疑問をもっている人もいます。益田市教育委員会が出している、中世における河口部の想像図の根拠を教えていただきたいと思います。

上記公開質問に対する回答が、平成25年12月27日に出されました。

沖手遺跡発掘調査についての公開質問状の回答をご覧下さい。

沖手遺跡発掘調査についての公開質問状への回答

質問1

今回の発掘調査により、11世紀後半から12世紀後半にかけての遺物が多数見つかりました。東西南北に走る溝状遺構によって区画された街区をもつ中世前 期の集落遺跡であることがわかりました。平安時代終わりの街区を持つ集落遺跡は、全国的に見てもまれな遺跡であると考えられますが、益田市教育委員会とし てはどのように認識されますか。

回答

沖手遺跡について、研究者から11世紀後半から12世紀にかけて成立・発展した「町」的な景観を呈した集落であり、中世都市の原型を考える上で貴重な遺 跡であると評価されています。かつて道路が建設された経緯がありますが、益田氏が益田本郷を本拠に実権を掌握した中世後期に先立つ中世前期の港湾集落とし て重要な遺跡であり、今後は、遺跡の保護と新たな開発事業に備え、未調査部分の範囲・内容確認調査を実施して解明を進めるとともに、周知と普及啓発に努め ていきたいと考えています。

質問2

今回発掘した場所から、建物が密集した跡が見つかりました。今回の部分は、沖手遺跡の中心部と考えられますが、益田市教育委員会としては、どのように認識されますか。

回答

この度の開発区域は、発掘調査の結果から、遺跡の中心部から広がる集落の南西端の一角と考えられます。なお、遺跡の中心部は、中世全期を通しての遺物の 出土量や検出遺構の種類の多さ、遺構密度の度合いから、平成16年度から18年度に発掘調査が実施された益田道路及び中吉田久城線の道路部分と推定されま す。

質問3

沖手遺跡のすぐ近くに、中須西原・東原遺跡があります。遺跡の価値を考えるに当たって、その周辺の遺跡と関連付けて考えることは、きわめて重要であると 思います。また、今後歴史を活かしたまちづくりにあたって遺跡の整備・活用を検討していく上でも、これらの関連付けが必要です。益田市教育委員会として、 これらの遺跡の関連をどのように認識されますか。

回答

高津川・益田川河口域における港湾遺跡については、中世前期の沖手遺跡から中世後期の中須西原・東原遺跡へ、さらに中世末期(戦国時代)の今市遺跡への 変遷が考えられますが、益田氏による領域支配体制の確立の過程や高津川と益田川の流路の変遷、河口域の潟湖の地形変化など未解明の課題も多いことから、今 後は新旧の文献や絵図、古地理、発掘等に係る調査研究の成果を蓄積しながら、これら港湾遺跡を一体のものとして関連づけ、その解明に努めていきたいと考え ています。また、これまでに得られた調査研究の成果についても、広報資料その他で公開・活用を図っていくこととしております。

質問4

沖手遺跡の位置づけを考えるにあたって、中世において益田川・高津川の流路・河口がどのようであったかは重要であると考えます。益田市教育委員会が出した パンフレットによると、鎌倉時代から室町時代にかけての河口は西側に開いています。しかし、郷土史を研究している人の中には、河口はもっと東側にあったの ではないかと疑問をもっている人もいます。益田市教育委員会が出している、中世における河口部の想像図の根拠を教えていただきたいと思います。

回答

中須東原遺跡の価値を市民に分かりやすく説明するために、平成22年度に、「中世の中須湊想像図」と「中世の益田平野想像図」のイラストを作成しまし た。その際、高津川・益田川河口域の地形や河川流路については、『中世今市船着場跡文化財調査報告書』(以下、報告書)に所収されている古地理の復元的研 究を参考にしました。
 既往のボーリング調査結果に基づいて作成された「益田平野地下の基盤岩の地形図」(報告書P47第19図)によれば、現在の高津川河口付近に相当深い谷 地形(-30m等高線ライン、アミカケ部分)があり、恒常的な高津川・益田川の本流と河口はこの部分に想定されます。また、海岸部の砂丘地形に関しては、 久城台地の沿岸部から中須の西側に向けて安定した基盤層が-10mの比較的浅い深度で舌状に張り出していることが読み取れ、さらに「元和年間 (1615~1624)石見国絵図では、中須の砂州は東西の陸地から隔絶して描いてあるが、沿岸流や波浪によって砂が漂流するため、常に島状になっていた わけではなく、東側の久城の台地としばしば繋がっていたと考えられる」(報告書P52)とも指摘されています。
 以上の考察や見解をふまえ、さらに、中世考古学や地質学の研究者の助言も得たうえで、現在の益田川河口部は閉塞に近い状態とし、高津川・益田川の河口は 高津寄りの西側で海に開いていた表現としました。なお「想像図」は、平安時代末期から戦国時代末期までの非常に長い中世の時代を一枚にまとめて表現してお りますので、地形や河川流路、遺跡の分布などについては、中世のある特定の時期を捉えたものではないことをご理解いただきたいと思います。
 島根県古代文化センターでは、平成23年度からテーマ研究「日本海沿岸の潟湖における景観と生業」が進められており、古益田湖も研究対象とされていま す。今後は、この研究成果もふまえて高津川・益田川河口域における潟湖の消長や景観の復元を考察していきたいと考えています。

 

益田市地形図

沖手遺跡発掘調査現地説明会

11月17日の午前10時からと11時からの2回に分けて、現在発掘調査中の沖手遺跡に関する現地説明会を開催されました。 あいにくの天候にかかわらず、2回あわせて50数名が参加したそうです。
説明会では、今回の調査で発見された平安時代末期から鎌倉時代の建物跡や道路跡、江戸時代のものと思われる道路跡などを公開し、またテントでは今回出土した遺物(貿易陶磁器等)を展示されました。

 沖手遺跡現地説明会  沖手遺跡現地説明会
 沖手遺跡現地説明会  沖手遺跡現地説明会

益田市遺跡略図

沖手遺跡発掘品