中世の動乱期に勢力を誇った西石見の豪族益田氏が本契とした益田市には、益田氏城館跡の七尾城跡や三宅御土居跡をはじめとして数多くの中世の史跡・遺跡が残されています。さらに、全国屈指の文書群といわれる益田家文書は現在東京大学史料編纂所に所蔵され、平成12年から大日本古文書家分け文書として全七巻の予定で刊行が始まっています。

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益田・高津両川の河口一帯に中世の湊町が広がっていたことをご存知でしょうか。近年、中須町から久城町に至る水田地帯から目を見張るような大規模できちんと整備された町並みが発見されました。益田川をはさみ西側の中須西原・東原遺跡と東側の沖手遺跡です。
注目されているのは、礫(れき)敷きの船着き・荷揚げ場、その背後の町並み、さらに倉庫群や鍛冶屋、鋳物屋などの建物が整然と配置され、福王寺をはじめとする五福寺等の宗教施設が控えるという見事な歴史的町並みを形成していました。これらは博多に次ぐ超一級の湊町跡として評価されています。

遺跡の立地・概要

沖手遺跡は、益田川に合流する今市川の下流に面して久城側に広がる水田地帯に立地する。益田川の河口部まで約1.2km、今市川を朔ると約500mでかつての益田川の本流跡である古川跡に接し、さらに300m上流には戦国時代に新たに成立した今市がある。益田川は昭和8年から12年にかけて蛇行部分が切り捨てられて現在の流れに改修された。それ以前の益田川は、現在の今市川の下流部分の流路であった。調査対象地の中で最も高い部分でも標高1.9mあまりで、一帯は遺跡の存在が想定しにくいほど起伏のない低地が広がっている。地形分類図では三角州上に位置している。平野に面する久城丘陵の先端には式内社櫛代賀姫神社、中須には海運と深く関わる厳鳥榊社がある。中世の石塔が福王寺境内と墓地をはじめ、専光寺墓地、真如坊跡、大塚墓地などに点在している。

歴史的な沿革

益田川下流域にはかつて「福」のつく寺が五寺建立され、この五寺は平安時代の万寿年間に津波で流失したという伝承がある。河口部の右岸、久城側にあったとされる妙福寺と蔵福寺についてはその場所は不明であるカミ安福寺跡は益田川の河口に近い左岸側に推定されているカミその後、南北朗時代に益田兼見によって益田本郷に万福寺として移転再建された。冷土宗福王寺には、享保14年(1729)に益田川の洪水により安福寺跡から露出した石造十三重塔が現存し、塔の前の石材には「享保十四年六月六日」、「九重宝塔、当山出現建剪と彫られている。この他にも境内には中世の五輪塔の部分などがまとまって残つている。専福寺跡は、益田川下流の右岸側、現在の今市川河口部に近い位置に推定され、「専福地」の地名が地籍図に残つている。北は「沖手」、東側には北から「竹湘、「槙ノ坪」、「下四反田」な
どの字名が隣接している。江戸時代には浜田藩益田組専福地浦番所が置かれ、益田七浦(大浜、本部、津田、遠田、久城、中須、中之島)の一切の浦事務を掌握していた。この近くには、長州の江崎から日本潮則に沿って津和野街道の津田に至る萩往来の通過点として難所の益田川馬演一名専福寺渡)があった。

調査に至る経過

益田平野部の北側には、近年、高規格幹線道路益田道路や県道久城インター線、さらにアクセス道路として中吉田久城線、益田川左岸及び右岸の区画整理事業など大型開発事業が相次いで計画されることとなった。これに伴い平成8年から分布調査を行つたところ、広範囲にわたって古代から中世にかけての遺物が採取された。このことから一帯に遺跡が存在する可能性が高いと考えられ、平成10年度からさらに平成10年度から遺跡の範囲や保存状態、性格を把握して今後の開発事業との調整を図るため試掘調査を実施することとした。

益田平野古地図沖手遺跡や中須東原・西原遺跡が位置する益田平野(左図)は、西に高津川、東に益田川が流れ、北は日本海に面している。この平野は2本の河川の三角州および扇状地と、砂丘に覆われた海岸砂州で構成された沖積平野である。

詳しくは、こちらから=おおだWebミュージアムサイトより抜粋