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益田市の遺跡の位置と歴史的な環境
遺跡の位置
益田市は山口県と県境を接する島根県の西端に位置する人口約5万人の地方都市である。旧国は石見(いわみ)国に属し、北は日木海に面し、益田川と高津川によって形成された石見地方最大の沖積平野を中心に市街が広がる。益田氏の例城七尾城跡は益田川平野の南東の丘陵上に築かれ、城下と日本海を広く眺塵できる良地を占める。城と対をなす館跡の三宅御土居跡は益田川右岸沿いの段F卜にある松龍山泉光寺境内を中心に広がる。中世前期から発展した集落跡沖手遺跡は益田川下流の右岸側の低地に立地している。
歴史的な環境
縄文時代の遺跡としては、後期から晩期にかけての安富王子台遺跡があり、三宅御土居跡の北側に位置する土井後遺跡でも同時期の上器が多数出土する。弥生時代は、安富王子台遺跡、羽場遺跡、井元遺跡などから前期の上器が出土している。高津川左岸の砂丘に立地した松ケ丘遺跡は弥生時代から古墳時代前期にかけての埋葬遺跡と考えられ、浜寄遺跡では最近前期に胡る水田跡が発見された。羽場遺跡では中期の環濠跡が確認され、後期の竪穴住居跡が検出されたサガリ遺跡は高地性集落の可能性がある。
古墳時代は益田川右岸倒に首長墓が築かれた。三角縁神獣鏡が出土した四塚山古墳、石見地方最大規模の全長87mの前方後円墳大元1号墳、造出し付円墳と方形基壇が一体化して全長約100mを測るスクモ塚古墳、全長52mの前方後円墳小丸山古墳などがある。後期になると海岸部の台地上に横穴式酒室を持つ小円墳を主体とした群集墳鵜の鼻古墳群カミ益田平野の東南部の丘陵斜面には片山、多田、南長迫、北長迫など横穴群が築造された。横穴式石室を持つ古墳として秋葉山古墳、高浜古墳、自上古墳がある。芝。中塚や本片子など須恵器窯跡力潮ヒ東部に点在する。律令制下では美濃郡に属し、『延喜式』神名帳に染羽天石勝命神社や櫛代賀姫命神社など五社がみえ、屯倉の遺跡が三宅御土居跡に推定されている。
奈良時代から平安時代にかけては大溢遺跡、古川遺跡、浜寄遺跡から多量の須恵器や土師器が出上している。益田川下流域の五寺が万寿3年(1026)の大津波によって流失したといわれる。平安時代末期には益田荘、長野荘の荘園が成立し、益田氏4代兼高が石見国府(現浜田市下府地区)地域から益田に移り、以来関ケ原の役までの領域支配の本棚地とした。益田氏城館跡の七尾城跡、三宅御土居跡の他に、家臣の居館跡と考えられる上久々茂土居跡、三宅御土居以前の居館として大谷土居跡があり、市域には52箇所の城館跡が広範囲に点在している。また石塔寺権現経塚からは中国製褐釉四耳壷など五口の優品が出上し、羽場遺跡では中世前期の貿易陶磁器が多量に出土した。
益田氏は戦国時代末期には博多湾の一部や萩沖の見島も領有して交易を行つていたカミ港津は益田川河口部の中須地減に推定され、益田川下流域には中世前期の集落跡1中手追跡や、七尾城下の益田本郷市に対する新たな市場として戦国時代に今市が成立した。関が原の戦いの後、益田氏が長門国須佐に移ると、益田は津和野藩と浜田藩に分割されて統治された。
中世七尾城下町の遺跡・寺社
中世の七尾城下であった現在の益田地区には七尾城跡や三宅御土居跡をはじめとする中世の遺跡や寺社、石造物などが中世の地割や地名と重複しながら現在もなお色濃く残されている。式内社染羽天石勝神社は奈良時代の神亀年間に創建され、紀州熊野権現を勧進して瀧蔵山瀧蔵権現と称した。天正9年(1581)に焼夫したため益田氏19代藤兼・元祥父子によって天正11年に再建された。勝達寺は承平元年(931)に瀧蔵権現の別当寺として創建された真言宗寺院で、中世初期には十六坊を構え、中世末期には権現社も掌握していたが、明治の廃仏希釈により廃寺となった。かつて式内社櫛代賀姫神社に近接してあった真如坊は分坊のひつとである。医光寺はもと天台宗崇観寺の塔頭として正平18年(1363)に創建された臨済宗東福寺派の寺院で、南北朗時代に争乱や火事で衰えたため、17代宗兼が再建した。室町時代の庭園があり、総門はかつての七尾城大手門と伝えられている。時宗清瀧山万福寺は、益田川下流の中須にあり万寿年間に流失したとされる天台宗安福寺を11代兼見が応安7年(1274)|こ移転再建した寺院で、室町時代の庭園が残る。萬歳山妙義寺の創建は文永年間(1264~ 1274)といわれ、当初は臨済宗で妙義庵と称したが、応永年間(1394~ 1427)の始めに13代兼家が再興し、菩提寺とした。門前には七尾城の堀、丸池からの川跡が残る。
住吉神社は4代兼高が上府の住吉社を城の鎮護神として奉祭したことにはじまるという。境内地の変遷は不明だが 現在の社殿は寛文4年(1664)に浜田藩主松平氏によって造営された。益田氏の重臣増野甲斐守の屋敷跡に天文12年(1543)暁音寺力創建された。順念寺は天正5年(1577)、妙法寺は天正9年頃にそれぞれ創建されたという。中世の石造物として、七尾城跡の南側の桜谷に益田藤兼の墓、益田兼家の墓と伝えられる花筒岩製の五輪塔がある。前者は総高211cmを測る市内で最大の五輪塔で、完存している。後者も復元総高約150cmの大型五輪塔である。 15代兼尭が隠居したという七尾城尾崎丸山麓の大雄庵跡の近くに伝益田兼発の墓がある。石屋形に宝麓印塔の相輪部分が納めてあり、横に花尚岩製の五輪塔の残欠が置かれている。さらに万福寺境内の権山墓地に11代兼見の墓と伝えられる五輪塔など6基の花筒岩製の五輪塔がある。兼見墓五輪塔は総高168cmの大型塔である。
明治時代の「美濃郡上本郷村地図」によれば、七尾城下の益田川左岸側の町には、いわゆる短冊状の地割が道に面して連続していることがわかり、益田川に近い自然堤防上に「上市、中市、下市」の地名が、暁音寺の東側の広い範囲に「上犬ノ馬場」、「下犬ノ馬場」の地名が見える。さらに、順念寺一帯には家臣の屋敷地と推定される「山根」、七尾城跡の山麓の北寄りに「堀川」の地名がある。現在の益田水源池付近と考えられる丸池の周辺に「小土井」が、土井町の山際に広がる土井地名の宅地部分には徳原土居伏土井)が推定されている。
暁音寺門前の鍵曲がりは、中世城下町の防御のための遺構、あるいは近世初めに境内を迂回する形で住吉神社への参詣道が整備された結果とも考えられている。一帯で行われた発掘調査では確証は得られなかったものの、中世城下町から近世在郷町への変遷を象徴的に残す地割の痕跡といえる。発掘調査によって中世の遺物の他に、須恵器、土師器が多数出土し、奈良時代から平安時代にかけての古サキ1遺跡が重複していることが判明した。
平成15年3月 益田市教育委員会発行資料より抜粋